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HISTORY ヒストリー

バイクに跨りギターを背負って全国の少年院や学校で弾き叫び、自ら農民として無農薬の米を作り、その米をメニューとして提供する「農民カフェ」を築き、あらゆる人間たちに「生きる!」を叫び続ける。
今やその活動はフランスやモンゴルなど世界へと繋がっている。

*農・食・音で世界を繋ぐ!
その和気優の旗印「農」と「食」と「音」は、まさに人類の共通言語である。
人間が生活している地域には必ずその3要素が存在する。
しかし人生を豊かにしてくれるそれらも、扱い方を間違えれば凶器となりかねない。
言わば社会の縮図でもある。

和気はこの3つの旗印で世界を繋ぐ旅へ出ている。

日本から始まり、モンゴルを経て~果ては南アフリカまで繋ぐプロジェクトだ。
輸送手段は「バイク」と「ギター」。15年前、バイクに跨がりギターを背負って少年院を弾き叫び始めてから、手法は変わっていない。まるで農と人類、種の起源を求めるような旅である。

そんな和気の人生、生まれたときから波乱の運命だった…

*俺はどこから来た!?
和気は10歳まで親の顔を殆ど知らずに育った。父親は暴力団幹部で懲役をくり返し、たえず刑務所暮らし。その間、和気は父親の実家で祖母と義理の祖父と共に暮らす。しかし、そこでは義理の祖父から虐待とも言える仕打ちを受ける。10歳になり両親と同居するが、その頃から父親は覚醒剤に手を染めるようになる。覚醒剤で狂った父親は、家で暴力を振るうようになり、母親は自殺未遂をくり返す有り様。状況は荒みきっていた。

兄弟もいない和気にとって頼る術は「音楽」しかなかった。「音楽」だけが孤独で疎外感に支配された生活の中で、時に父となり時に母となり、また時に兄弟や友人として、和気の心の拠り所となった。中学一年生の夏、父親は覚醒剤密輸の主犯格として逮捕。
報道に大きく取沙汰され、新聞の一面をかざった。母親は家を飛び出し、また戻ってきたものの、一人取り残された思いの消えない和気も非行へと傾いた。窃盗/傷害/恐喝をくり返し、何度も補導されたが、当時の中学校校長が熱意のある保護司であり、そのサポートにより更生施設行きだけはまぬがれた。

*そして転機が訪れる。
中学三年の夏、初めて父親の面会を秋田刑務所で経験した和気。面会室、ガラス越しの父親の姿に愕然と「現実」を突き付けられた思いだった。
あぁ、このままじゃマズイ…。このまま自分も父親のように落ちていったら、俺もお袋も社会の闇へと葬られてしまう。俺たちは、なんて小さく弱い存在なんだ…それが「現実」だった。嫌だ。和気は決意した。

初めて、自分の足で一歩踏み出す覚悟を抱いた。それは、まったく行くつもりのなかった「高校」へ進学しようとした「決意」だった。
以来、絶望と希望の狭間で、いつも和気を救い続けたのも「音楽」だった。聴くだけではなく自ら歌い始めたのもこの頃であり、それは自然な成りゆきであった。

そして二十歳で上京。93年、バンド〝JACKKNIFE〟でメジャーデビュー。作家/プロデューサーとしてもヒットを飛ばし、東京は下北沢でダイニングバーを経営するなど全ては順風満帆であった。

*そんなある時、またも転機が訪れる。
中学時代の親友が起こした殺人事件。ニュースでその事件を知ったとき、何か強い使命感を抱くようになった。自分が本当にすべきことがもっと他にあるんじゃないか?そして歌うべき、向かうべき「場所」が必ずあるはずだ。和気優にしか出来ない「行動」があるはずなのだ!
選んだ道は「少年院」「少年院」で歌うこと。これは和気にしか出来ない「道」であることを悟った。事件を起こした友人と和気は何も違わない。どちらかと言えば和気の方がその可能性は大きかっただろう。生まれ育った環境を考えれば、である。 しかし和気がそうならなかった唯一の要因、それが「音楽」である。確かに「音楽」は圧倒的な引力で和気を導いてくれていた。そして今も尚「音楽」に救われ続けている。もし俺に「音楽」がなかったら…考えただけでぞっとする。それならば和気を救った「音楽」を、有りのまま伝えたい。それには大きな意味があるはずだ!

そんな切っ掛けから始まった少年院慰問コンサートも今年で15年になる。2008年には全都道府県120箇所以上16,000kmをバイクに跨がり、一気に弾き叫び切った。

更に現在は歌うだけに留まらず、少年院の卒院生を自らの店で雇用し、農園作業を通じて自立指導を行う傍ら、農家志望の若手を農村地へ輩出する活動を促進している。一般の「中学校/高校ライヴ」も始めている。自分を信じる気持ちと、自分をあきらめない「生きる」を、一般の中学校などで歌を通じてメッセージしている!

*3.11は突然やってきた。
被災農家支援プロジェクト「ガレキに花を咲かせましょう」

未曾有の惨事となった2011年3月11日の東日本大震災。和気の農業仲間も数多く被災した。その夏、千葉、茨城、福島、宮城、岩手、青森、北海道をバイクに股がりギターを背負って一気に駆け抜けた。福島原発事故による放射能被害と風評に追いつめられた農民。津波で全てを失った仲間たち…バイクで路上から見た惨劇は、まるで戦場だった。

ところが、ところが、だ。生きている。まるでガレキに咲いた「花」のような人間たちが立ち上がっている。こんなに痛めつけられても、こんなに叩きのめされても「生きる」を諦めない「花」のような人間たち。この出会いが和気を大きく変えた。

*2011年、和気にとって3度目の転機が訪れた。人生が変わった瞬間だった。
陸前高田で出会った一人の農家青年「村田光貴(むらたこうき)」さん。彼は陸前高田でリンゴ栽培をしていた農家だったが、津波ですべて流された。幸い生きることは出来たが、震災以降は毎日がガレキ処理で農業どころではなかった。流されたリンゴ園も「借地」であることから農地に戻すことは叶わず、農業を諦めかけていた矢先、ツアー中の和気と出会った。村田さんは言った「本当は農業を続けたい」その思いに火がついた和気は「被災農家支援プロジェクト」を立ち上げた。
農家が農業を諦めてしまうことだけは止めなくてはならない!移住してでも農業を続けるべきだ!
和気は原発がなくエネルギー自給率日本一の「大分」に目をつけた。そして大分の農家に声を掛け、集まった農民たちで村田さん移住移農のサポートを開始した。大分県国東半島では農地や空家が提供された。村田さんも本気になり、開けて2012年、陸前高田から1,500km離れた大分県国東市へ移住を果たした。
ココからが大変、大分では無肥料無農薬の「自然米」作りを目指すも、まるでノウハウ無い、機械無い、何よりお金無い…の無い物尽くしであった。
地元の仲間たちが生活必需家電等を提供。宇佐の百姓チームが農機械を提供。福岡の百姓夫妻が手取り足取りの技術伝承。和気も傍からサポートするべく国東半島へ一旦移住した。村田さん自身の農魂もあり、その年の秋お見事3.6トンの米の収穫までこぎ着けた。これは「農」の奇跡である。
何一つ持たずにやってきて3.6トンの収穫。ゼロから3.6トンは、まさに農業だから成せた偉業である!あれから数年たち、村田さんは認定農家となり現在も米作りに邁進している。

震災はもうひとつの切っ掛けをもたらした。フェアトレードマーケット「あおぞらマルシェ」開催。この震災にて和気はアンフェアな農の現状を見てきた。特に福島の農家は悲惨極まりない。中でも人間による風評被害は、おぞましい限りだ。育て上げた生鮮の放射能検査を経て問題無しとしても、大手の問屋は手を引き、JAは無論、生協までも農民を切り捨てた。この有り様は、社会の縮図だ。世の中にはアンフェアな世界が渦巻いている。しかし、足掻くだけでは何もならい。

和気は考えた。こうなれば直接消費者に訴えかけるしかない!こうして生まれたのが和気優理事長のNPO法人Agri-Connections主催の「あおぞらマルシェ」である。まず下北沢から開催された。福島の農家を中心に50ものオーガニックなブースが軒を連ねた。
会場には朝摘みの野菜が並び、予想を超える人手で賑わった。ブースごとに消費者と生産者の直接取引がなされ、ひとりひとりの対話で風評の払拭を訴えかけた。
後で聞いた話、福島の農家が期待せずに来たのに、何軒もの契約が取れて信じられなかった!と話してくれた。

その会場には村田さんの姿もあった。和気にとっては大きな形への一歩となった。

あのガレキを走った日から1年…どうにかここまで具現化することが出来た。3.11が教えてくれたこと、それは…
日常最後の日、3月10日を記念日に
もしも明日があるならば…

ある日気がついた。3.11は世界中が知っている日。でも本当に大切なのは3.11ではなく、ありのままの「日常」最後の日3.10ではないだろうか?

当たり前のように響いていた「いってきます」「ただいま」「いただきます」「ありがとう」そんなありふれた日常、最後の日となった3月10日
みんな帰りたい、戻りたい。
3.10を忘れない記念日に。
もしも明日があるならば…それだけでいい。

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